2020年。日常に騙されない生き方はできるのか。

あけましておめでとうございます。


前回の記事からは二週間ほどと、かなりの時間が空いてしまいました。そろそろと思い、本腰を入れて色々と取り組んでいきたいと思っています。


ちなみに新年の第一歩として何かしたいと思い、TwitterInstagramをアンインストールしました(笑)
このブログの更新ツイートと、たまに思い出でインスタに投稿するのを除いて、SNSを見る時間を減らそうと思いました。これがどう転ぶかは全く分かっていません。


さて、今年はなんとなくですが、かなり濃い一年になりそうな気がしています。一番にはやはり、京都大学を出た後にどの進路につくのかが決まる年となる、というのが大きいでしょう。実際このことは今の自分には全く決まっていません。自分が何をしているのかも全く分かっていません。


周りの人間は就活だといって動き始めるくらいの時期にもなってきましたので、焦りとか全くないと言ったらウソにはなるのですが、まああんまりありません(笑)。


今回の記事は、新年一発目ということで、自分のなりたい像なんかと絡めながら、将来の職について話したいと思っています。

一番に就活がしたくなかった話


就活というものが心から嫌いです。就活にいそしんでいる人たち、本当にすみません。一個人の戯言だと思って聞いてください。


一番にはやはり、就活自体がどうしても本末転倒なものだと思えてなりません。インターンにも行ったことがないので何をしているのかなどは僕の憶測の域を出ませんが、しかし、自分の長所やアピールポイントなどを会社に説明したりと、自己がどんな人間かを伝える機会は多いでしょう。そしてその長所などは当然、自分が今まで考えてきたことなどの密度に比例します。自分は大学で何を考えてきたのか、それが社会にどう生かされるべきなのか。それを考えさせる場が、平気で大学を休ませているからです。三年生や四年生が、インターンで授業休みます、なんていうのはもうよく見かける光景でしょう。単位の実質化なんて言っておいて、仕方がないところも多いのでしょうが、しかし学生から学ぶ時間を取り上げるのは良策とは思えません。


どんどん、スピード重視になっているような気がしてしまいます。他人と差をつけるとしたら、思考力や発想力、知識量であるべきはずが、いかに早く行ったか、いかに多く行ったかなど、本来の目的からは逸れた結果を招きかねないような気がしてしまうのです。こうしたことが進むにつれどんどん「肩書社会」になってしまうのではないかというのが、自分の一番の懸念です。

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そしてもうひとつ、就活というのがそもそも「自分を売りに行く行為」に見えてしまうという点も挙げられます。これにかんしては、相当にねじ曲がった自分の主観であることも大いに理解していますので、不快にさせる人がいたら大変申し訳ございません。


自分がしたいことと照らし合わせて行きたいところを決め、そこに自分をアピールしに行く、このこと自体に一切おかしいところはありませんが、しかし一社のみに絞って就活をする人のほうが珍しいでしょう。大体の人間は、ここがダメだったらあそこもと、予防線を張りに張りながら、たくさんの企業を見に行くことでしょう。だからどうしても、なぜそこに行くのかもわからないままに行ってしまい、何を話したいのかもわからぬままに時間を過ごすことが多くなってしまうのではないかと思います。


これをぼくは「ただ自分を売りに行く行為」と呼びます。


かなり語弊がありそうですが、様々な環境を視察することは、間違いなく、とても大事です。ただそれには有機的な目的が伴ってしかるべきです。その目的は、「~になりたいから」でも、「とりあえず何も知らない今の自分の状況を打開したいから」でも、何でもいいとは思うのですが、そうした自分の思いなしに、


ただ保険を掛けるためだけに自分のしたくないことをする


という状況が、僕にとってはとても苦手であるというだけの話です。


なので、言うなれば僕は、自分をどこかに売りに行くのではなく、何かしらの機会を自ら買いに行きたいのです。この意見と、就活が嫌いなんて話に一切の関連はないのですが(就活自体に対する批判とかは一切ありません)、やはり僕が就活をする機会はこの先ないと思います。


すり替えられた「本当の価値」を探す。


ここまでだったら、ただの、「俺は何にも染まらねえ!」って言っているみたいな、ただのイタい奴ですね。だから、ではそんな中から自分は何を探すのか、ここまで考えないといけません。周りに流されずに自分がしたいことをする、そこまでは立派な考えかもしれませんが、しかしその先に思考がなければただの口八丁です。


そしてその目指す自分の生き方は、


価値をすり替えて与えてくる、そんな社会のウソに騙されない


という生き方です。


これだけでは、確実に伝わりませんよね(笑)。自分でもよく分かっていないのかもしれません。ただ僕は、AIにはできない人間としての生き方をしなくてはならないと思っています。


人間というのは、地球上で唯一、「意味の世界に生きている」生き物です。ほかの生物に、「これをしたのは〇〇だからかな」とか考えている生き物は(たぶん)いません。勝手に目的を作り、勝手に動機を作り、そんなことができるのは人間だけです。以下の自分の記事でも、どのように動機を作るべきなのかという話をしました。
あなたの動機は、幸せじゃない。 - おかえり、春の丘。


こうして勝手に動機を作れるなんてすばらしい生き物のようにも思えますが、しかし、だからこそ人間は、


ウソの動機に騙される


のです。「社会が巧みに価値をすり替えて与えてくる」といってもいいかもしれません。今の自分も、驚くべき多くのことを知らず、驚くべき多くのものに騙されていることをまずは理解しないといけません。何か新しいことを知ったとき、それを知らなかった時の自分を思えば、少し恐ろしくなるような気持ちすらします。


それをもし知らなかった時、自分にいざということが起こったときに泣き寝入りをするしかありません。そんな自分にできるのは、あれが悪いだの文句を言うか、ひとり勝手に拗ねるかのどちらかです。現状を変えようとする力なんて湧いて来やしません。


だから、ちょっとでも強くなっておかないといけません。何かあったときに「ああそれは社会のウソだな。ぼくは今~~という目的のために~~になっている」と気付けるだけで、僕にとってそれが大きな大きな人生の軸になります。


題に付けたように、これを日常に騙されると言ってもいいでしょう。当たり前の日常が続けば続くほど、その日常はどんどん惰性にあふれてしまいます。新しいものへと目が行ってしまい、古き良きものを蔑ろにしてしまうとしたらそれは本末転倒ですが、しかし「非日常」即ち、自分にしか出せない自分にとっての新しい切り口を探す姿勢は常に持たないといけません。


今までの自分の記事を読んでもらった人ならわかると思いますが、自分の感情は、弱く、脆いことが多いです。自分のもろさを最も出してしまったのはこの記事でした。
「京都・自死遺族の会」と、僕の鬱。【前章】 - おかえり、春の丘。
しかし自分の脆さを知ったからこそ、その脆さを理解しできることが増えるのも間違いありません。


もう馬鹿にされるのはある程度は慣れっこです。ただこんな自分を応援してくれる人もいるのは間違いない事実であり、そんな人たちに恩返しをするためにも、日常に、社会に騙されぬよう、少しでも強くなるのが、今の自分の目標です。


本年も、よろしくお願いいたします。






おわり。