偏見を持たれているという偏見は偏見となりうるのか?

自分に理解がない、という印象を抱くことは誰にでもあると思います。そんなに他人を責めるようなイメージでなくとも、少なくとも、この人とは合わないな、みたいに感じることは誰にでもあるでしょう。


ではなぜその人はあなたと合わないのでしょうか?

あなたはなぜ、その人に理解されていないのでしょうか?


例えば本当に、その理解がないと感じる人が想像力にかけていると思う場合や、その合わない人と本当に価値観が異なっていること、これは間違いなく存在するでしょう。でもこんな普編的なことを書いても面白くありません。


今回は、嫌いという攻撃的な感情が別の攻撃的な感情を生み出しているケースについて考えたいと思いました。そしてそこで重要だと感じた自分の問いは、


偏見を持たれているという偏見は偏見となりうるのか?


ということです。


あいつに自分の気持ちなんか分かってたまるかとか、そういう感情は、自分が相手に対し理解をしたくないという感情を相手が先にこちらの理解をしようとしていない感情を先立って持ち出すことで正当化したために表れているものだとも考えられると思ったのです。



ややこしくてとても分かりにくいと思うので、噛み砕いて説明したいと思います。

伊藤詩織さんの勝訴に関し。


つい最近ですが、伊藤詩織さんが、過去に受けた性被害について、訴えた被告に勝訴したという記事がありました。かなり記憶に新しいこの事件でありますが、主に論争の点となったのは、彼女に合意があったのかや、被告に意識があったのか、などでしょうか。事件のすべてを知っているわけではなく、また法律的な視点で自分には述べることもできませんから、そんなことに自分が口を突っ込むのはおかしい話でもあるのですが、しかし自分は、「被告と原告の関係性及びそれに対しての周りからの視線」という点に注目しました。


ここに注目するきっかけとなったのは、被告の山口氏の以下の発言があったためです。

本当に性被害にあった方は、『伊藤さんが本当のことを言っていない。こういう記者会見の場で笑ったり上を見たり、テレビに出演して、あのような表情をすることは絶対にない』と証言してくださった。


この発言に関しては、SNSなどでも物議をかもした印象です。そしてその多くは被告の山口氏に対する非難でありました。


確かに、非難を浴びることは避けられなかったでしょう。暗い過去を抱えた人間は一生日の目を見て笑ったりするな、陰でメソメソしておけと言っているのと同じことです。上の発言は、どう考えても理性ある大人が配慮を行った発言だとは思えません。


京都の自死遺族の会「こころのカフェきょうと」の代表である石倉さんも、同じことを仰っていました。やはり自死遺族というのは間違いなく暗い印象なんです。そういった人が明るい態度などを取ったときに「え、どうして」みたいに感じてしまったり、そういう時に外界からの偏見を感じることはある、と。


しかしそういったことに加え、次のようにも仰いました。


そうした感情が、「どうせ自分たちは理解されない」といった感情に向かってしまうのであれば、それもまた偏見となりうると。


これらのことから


偏見とは双方向に向かい成立するものではないか


と、僕は考えました。一般的に「偏見」と言えば、理解に欠けた人間から他人に対しての一方的なものを想像しませんか。しかしこうした単純なもので済まされるものは少なく、偏見が双方向的に行われているものに我々は注目し、そして反省をすべきです。


人を裁くのではなく、「人同士」を裁く法


精神分析の視点でも、これに似たような考えをみつけました。


投影象徴界の話です。


例えば、子供同士のけんかで、ある一人の子がもう一人の子をぶったとします。そしてその子にどうしてそんなことをしたのと問い詰めたら、「あの子が睨んできたから」と言いました。


この話から読み取れる二人の関係性は、どのようなものでしょうか。


まず、「あの子が睨んできたから」という理由づけに関しては、これは動機の語彙が成立しているかもしれません。つまり、自分が先にあの子に対し攻撃性を持っていたが、それを正当化する動機として先に、相手が自分を嫌っている事象を持ち出している可能性です。

※動機の語彙に関しては以下の記事を参考にしてください
www.mattsun.work


これを「投影」と呼ぶこととします。防衛機制の1種として聞くことも多い用語ですね。自分の嫌いな感情を、先に相手からのものだとして「投影」するのです。


そしてこの「投影」がもし行われているとするのであれば、上のような子供のけんかは、「双方向的な投影」と表現できないでしょうか。投影が片方にのみによって行われているのだとしたら、もう片方は投影ではなく「客観的な内省」を行っているにすぎず、いわゆる喧嘩とはならないからです。自分が嫌われている理由に相手が先に嫌っているからだと原因帰属を行う限り、その帰属は二人の間を駆け巡るだけで収束をしません。


そしてこの関係において、二人での間での二人の攻撃性を想像界、殴るという行動などを象徴界と呼びます。この時、象徴界を裁くものが法であると言うことができます。暴力を奮ったことが罪に問われるのであり、勝手に誰かを嫌いになることでは罪に問われはしません。


この全体の関係を裁くものは、ある文化によっては王様であったり、ある文化によっては法であったりと様々ですが、その裁く主体に対し要求が発生しクーデターなどが起きて形を変えて行くことで、この世界は進歩してきました。


そしてここで重要なのが、ここで法で裁かれる象徴界1人では成り立ちません。当然、想像界もです。


つまり、ある2人の関係により作られた投影を法は裁くことができません。


だから、投影をひたすら訴え続けるということに、全くもって意味は無いのです。ではこうした制度、環境の中で生活していく態度として最も相応しいのはどのようなものでしょうか??

中立を保ち声を上げる。


上に出した直近のニュースを例に出すのであれば、例えば「そんなところにホイホイついて行く女性側も悪い」などという意見もあるわけです。


この意見を聞いてどう思いますか?


「腹立たしい」
「許せない」
「何で被害者が非を認めないといけないのか」


だけで終わってしまうのでは、上の内容を読んだ上での進歩が全く見られていません。


決して、僕も腹立たしくないわけではありません。合意のないそうした性犯罪は糾弾されるべきとは思いますが、しかし、「そんなところにホイホイついて行く女性側も悪い」という意見があったとして、それも間違いなく、認められるべき一意見です。


万引きが悪いのは明白であったとしても、でもそれが、店がセキュリティに気を配らなくていい理由にはならないからです。


ただ、お互いが自分の悪さを相手に投影し続けるだけでは話が何も進まず、極端に言えばかなり無駄のある行為であるということは知っておかないといけません。「夫婦喧嘩をするのはいいが、『あのときそっちも○○したじゃん』だけは言っていけない」という鉄則があります。過去に過去で応戦すれば、そんなものいくらでも出てくるからです。最終的に「何で生まれてきたんだ」とかになるかもしれません。悪に悪で対応するのは賢くないです。



そして伊藤さんの事件に関して、一番に認められるべきは


声をただあげ続けたこと


ここにすべてがあると思います。事の発端があったのは2015年のようでしたので、4年間も声をあげ続けたことになります。声をあげ続けたとて、その事が社会に認められる保証などどこにもありません。認められる確率のほうが断然低いです。


羽生善治さんの好きな言葉があります。


「努力したとて報われる保証などないようなことに一心の情熱を注ぐことができるというところにその人の才能がある」


まさにこの通りでしょう。


しかし、声をあげ続けるという方策の中で、自己防衛に頼り切ってはいけないということだけです。


投影は悪いことではありません。人間の本能なのですから、一度もやったことのない人間などいないし、今この瞬間だって僕もやってしまっていることです。ただ、理解しない自分の理由づけのためだけに、理解されない自分を持ち出すことでは話が前に進まないということです。


自分の動機付けを正しく把握できている人間にのみ、客観的に中立の立場で声を上げることができます。


偏見を持たれているという思いは、それ自体では偏見とならずとも、自分の正当化のために用いられるのであれば偏見となる、というのが、とりあえずの今の自分の答えです。


理解されていないという嘆きが、自分の理解の不足によるものと気付く時が、自分の第一歩です。





おわり。