【12/19】京都・自死遺族の会 フリースペースの記録

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ちょうど2週間ほど前に、自死遺族の会のイベントに参加させていただいた旨の記事を書きました。

www.mattsun.work
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そしてそれに関連し、同じ団体の主催する自助グループに参加してきました。今回はそのことに関して記事を書きたいと思います。

京都・自死遺族の会に関して


上にも貼らせてもらいました記事に、そもそもの自死遺族の会の説明は書かせてもらっています。ただこの記事においては、当然その当時に参加したイベントの説明を主にさせてもらっていますから、それとは異なる今回の場の説明はまたしないといけません。その説明をまずはさせてもらおうと思います。


京都・自死遺族の会「こころのカフェきょうと」のサイトは以下です。
こころのカフェ きょうと | 自死遺族サポートチーム


京都・自死遺族の会の3つの場


ほぼほぼ上のサイトに書かれていることなのですが、かいつまんで書かせてもらいます。京都・自死遺族の会では、主に3つの場が存在します。

イベント


これは、上の自分の記事に書いたものと同じです。2019/12/7に開催されました、「響きあう音とこころ」です。どなたかを招待して講演をしていただき、音楽を聴くというものでした。開催頻度は少ないものですが、しかし参加される人数は最も多く、規模としては一番大きなものでしょう。これに関しては「京都・自死遺族の会」と、僕の鬱。【後章】 - おかえり、春の丘。より参照をお願いします。

例会


こちらは、もっと小規模なものですが、少人数のグループを少しずつ作り、一人のスタッフを中心にグループの中のメンバーが思いを語り合うような場です。スタッフというとカウンセラー的なものを想像されるかと思うのですが、しかしスタッフの方の皆さんにも家族を自死で亡くされた経験があられます。そういった方たちで立ち上げられた団体が「こころのカフェきょうと」であり、ですのでこの会も自助グループに含まれると思っていいのではないかと思います。

「こころのカフェきょうと」では、毎月第二土曜、参加費は500円、お菓子などを囲んで行うゆったりとしたものです。場所は「ハートピア京都」という場所(先日のイベントもここでした)で、京都市の御所の近くです。


今回は次に挙げる「フリースペース」について書かせてもらうのですが、しかしこの例会においても、雰囲気や感じるところを別の記事でまとめることとなると思います。


フリースペース


最後になるこちらが、この記事で主に取り上げるものとなります。上の例会とかなり似ているのですが、もっとさらに自由度が高いものであるという認識が最も分かりやすいのではないかと思います。形式ばっていないものですので、初めて来られる方はこちらのほうが場に入ってきやすいのではないかな、と僕は思いました。

例会と同じでお菓子を囲みながら皆さんの思いを話し合うような感じですが、例会のようなグループ分けは一切行いません。今回は福祉センターの一室を借りて、10人ほどが大きな机を円で囲むような形でした。例会ですと、自死に関する思いを語り合うような意味合いも強かったりするのですが、しかしこちらは本当にただの世間話など、言われなければ自死遺族の会であるとは分からないといっても過言ではないほどのものである印象を僕は受けました。

これが行われているのは、毎月第一第三木曜、西院近くの京都市心の健康増進センター」というところです。


フリースペースに最も感じた「愛の許容」


この三つがおもに、こころのカフェきょうとが行われている自死遺族の会の集会です。サイトにも書かれていることをかいつまんで書いただけなので、あまり有益なことはかけていないと思うのですが、これについて自分が感じたところ書いていこうと思います。


題にも付けたとおりに、僕が最も感じたのは、「圧倒的な語りやすさと安心感」でした。ありきたりな言葉のきれいごとのようにも思えますが、しかしこれはとても大きなものです。


自死遺族に関し、辛さが内向するから当事者の中で心情が複雑化するという話を、前回の自死遺族の記事の中で書きました。そこに関し遺族の中にある思いは


今の自分の気持ちはだれにもわかってもらえない

今の自分の気持ちは許されない


こういうものであることがあります。ごめんなさい、遺族の方の感情をカテゴライズしたいわけではないのですが、しかし自責感情としてあり得そうな感情を今回は例に出して説明します。こうした気持ちは自助グループにおいて、無くなるとまではいかないまでも、少し減っていくような感じは確実に存在するのではないでしょうか。


周りがみんな似た境遇であるという安心感は、やはり他のものには変えられません。理解を得られる集団を、みんなは自分で選ぶ権利が確実に存在します。


前にも似たようなことを書いた記憶があるのですが、身近な人間、例えば親や友人が理解ある人間だとは限らないのです。それはその理解ないと感じる人に一切の非はありません。知った後でそのことに関しいろいろと調べるのは可能であったとしても、その前から他のパーソナリティを知っておけなんていうのは傲慢な話です。違う環境で人はそれぞれ生きてきたのですから、価値観が人それぞれで異なるのは当然です。そしてそのパーソナリティは、残念ながら一朝一夕の勉強では身につきません。


だからこそ、人は理解ある集団を自分でもっと自由に選択すべきなのです。


結局自分は、ボランティアとしてこの会に参加しているのですが、ただ自分の考えや働きかけが最も理解を得られるのはこの周りの皆さんのおかげであることも信じて疑っていません。そうした集団でこそ自分は間違いなく一番のパフォーマンスができます。



簡単すぎる説明と、感想に関しても、まとめれば「安心感あるよ」と大したことをかけていないのですが、しかしもっともっと、どんな人間にもそのパーソナリティに安心感を与えてもらえる環境が存在することを僕はただ訴え続けます。





おわり。