『春の丘』について。

はじめまして。


この度は、ブログ『春の丘』にお越しいただき、本当にありがとうございます。


私は、当ブログを運営しております、岡 晴馬(おか はるま)と申します。


特に自慢できるものがないものの、辛うじて勉強だけは少しできた僕は、中高一貫の都内の進学校を卒業し、京都大学に入学。在学時は、総合人間学部において自死の研究をつづけました。




「軽いトラウマ障害があったりするかもね」と、初めて行った心療内科のクリニックでこのように言われたのが、ちょうど大学一年生を終えようとする頃でした。いろいろと考えてしまうわりに答えは出ない、そんな自分はいったいどこを生きているのでしょうか。


今の環境に至るまで、わざわざ関東から京都へ来たことや、工学部に理系として一度入学したものを諦めて総合人間学部に転学部したことなど、様々な決断がありました。


このブログを運営しようと思ったきっかけや、今の考えなどを、色々綴る場にしたいと思っています。

高校三年生 春


ちょうど高2から高3へと進級し、これから最後の一年だねと、高3の期待と受験勉強への不安を同時に抱えていた、その頃の話です。


僕は、クラスの友人を、自死で失いました。


人を失うというのは喪失感がとても大きく、もう何をする気にもなりませんでした。ちょうど一か月後くらいに控えていた運動会も、彼とは一緒に参加はできず、そのあとはただただ受験勉強をこなしました。


結局、人間関係が面倒くさくなり、自分への自己肯定感がだんだんと消えていくのを自覚しました。自分は傷つかぬよう、心の中ではいつ嫌われてもいいように準備をしつつ、心の中では卑屈でドロドロしたものを抱えながら、表面上は明るい人間を演じようとしました。


友人が亡くなる前に悩みの種としていたことを、「そんな気にしなくていいでしょ」と一蹴したことがあります。

友人が亡くなったのも知らず、初めて彼が学校を休んだ日には、自分は何も知らぬ顔で彼に「おーい、生きてる?」とLINEをしました。


自分の恥ずべき無知に絶望し、贖罪の念に駆られることとなりましたが、それを周りの人間には悟られてはいけないとも思い、必死に隠しました。



しかし、心のどこかでは、そんな自分から変わることのできるきっかけも探していたのだと思います。



京都大学への進学



無事に、現役で京都大学の合格ももらい、進学をしたのですが、当時は研究をした総合人間学部ではなく、工学部の建築学科に入学をしていました。


もともと自分は数学などの理系科目の方が好きだったし、あとは、なんか建築士ってかっこよくないか、という、それくらいの気持ちです。


普通にそこそこの単位を取り、あとは所属していた部活動でガシガシ運動をし、という生活をしていました。


お世辞にも真面目な学生とは言えませんでした。単位はそこそこに落としてしまっていたし、取った単位も合格点ぎりぎりのものがほとんどでした。入学前のイメージと、入学してから感じ取る雰囲気には、自分にとっては大きな差があるように感じていました。そうした生活がきっかけとなり、大学二年生ごろから、他の学部ではどんなことをやっているのだろうと気になり、他学部の授業に潜ってみるようになりました。


学部の必修授業の課題である模型を作るのにも疲れ、他学部の授業を眺めるのが休憩となっていたある日、とある授業でこのセリフに出会ったのです。



本当に価値ある生き方、意味ある生き方、充実した生き方とはなんなのか?自分は何をすべきか、何ができるか、何をやりたいのか?何が正しくて、何が間違っているのか?



総合人間学部での心理学系の授業で、確かスライドの一部だったかな、に出てきたセリフです。ただの思春期にありがちな素朴な疑問ですが、でもこういう絶対に答えが出ないようなものに本気で挑んでみるのって、ありだなって思いました。


もとから僕が求めていたのは、恐らくこのようなものだったのです。高校三年生の時からずっと抱えていた自分の気持ちに腹を括り、大学を卒業するころには自分の気持ちに一つの結論が出せるような――それがたとえ絶対的な正解でなくとも――そんな未来を心の中ではずっと求めていたのではないかと、気が付いたのです。


こうしたことを本気で考えられるのなら、今までよりも自分に違和感のない生き方ができるだろうか、と思いました。時々自分を否定するような生き方をするくらいなら、どこかで一度しっかり向き合うタイミングが必要なことは、自分でも気づいていました。



これになら、少なくとも製図室で模型を作るよりかは、情熱を注げられると思ったのです。友人を失ってから抱えていたもやもやの正体に、少し近づける気がしました。



多少のリスクはとったとしても、ここで妥協はしてはいけない気がしました。かくして、工学部から総合人間学部へと、転学部をしたのでした。


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京都大学で理系を捨てるというのは、やはり愚かな行為みたいです。最終的に後押ししてくれた親ですら、はじめはかなり反対されました。


でも、ふつふつと湧いてきた期待が、確かにありました。ちょっとだけワクワクしました。


総合人間学部での研究


かくして転学部に成功し、運よく留年もすることがなかった自分は、総合人間学部三回生として大学に通うことになりました。そこで感じる世界は、今までとは全く異なるものでした。


ここまで自分にとっての世界が変わったのはなぜかと言うと、それはこの記事で、このように書きました。

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考えていたことが「○○になりたい」だけで、「○○をこうしたい」ではなかったから。

建築士になるのは憧れていたけど、日本の建築をこうしたいとか、こんな空間を作り出すために勉強してみたい、みたいな感情はさらさらなかったのである。そしてそれを、大学の前半では僕は見つけられなかった。代わりにふつふつと湧いてきたのは、僕が高校で友人を自死で亡くして以来のモヤモヤとした感情に対する処方箋を必要とする気持ちだった。

だから、転学部してからは、それはそれは上手くいった。自死に関する世間のイメージをこうしたいという強い気持ちがあったし、心理学や社会学を勉強して得られた知識が全て過去の自分につながった。とても面白かった。建築学科では1を割っていたGPAは、今になっては3を超えた。


勉強が、今までとは段違いに生き生きしたものとなったのです。今までは知らなかった知識が、自分の頭に足りなかった穴を埋めていく感じがして、これが勉強かと知ったような気持ちになるほどでした。


そうして3.4回生の間は、総合人間学部人間科学系人間形成論分野の授業を取りながら、ずっと自死を研究しました。


自死に関するカテゴリーは以下にまとめていますので、よかったら。


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しかしこの総合人間学部での二年間も、ずっと楽しい期間が続いたわけではありませんでした。


三年生冬の、心のさざ波

異変を感じ始めたのは、三回生の冬頃でした。転学部して半年ちょっとが過ぎたころであり、自分はこの頃、京都の自死遺族の会に出席させてもらって話を聞いたりしていました。上に載せたカテゴリー記事の前半は、ほぼその記録で埋められているはずです。


そうした自分の行動は、気付かぬ間に自分を追い詰めたようです。寝るたびに、周りの人間だけが銃殺されていき自分だけ生き残る悪夢を見ては、起きて汗がびっしょりだったり、何もわからず突然涙が出たりと、何か変だなという事を薄々と感じました。ある日、図書館から出たときにめまいがしてうずくまってしまったのをきっかけに、精神科に行くことにしました。ちょうど、三月ごろでした。

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診てもらった結果、鬱病など、精神病では一切ありませんでした。でも、倦怠感がピークに達していたのでこのままではまずいねと言われ、抗うつ薬でしばらく安静にしようと言われました。


部活の引退を間近に控えていたころでしたが、部活に行ける体調でもありませんでした。何も話せぬまま迷惑しかかけていないと自分を責めた日は、今でもよく思い出せます。情けない限りです。


ちなみに精神科医の人には、「自分を追い詰めるなら自死の勉強はやめた方がいいよ」と言われていました。向いていない、と。結局それは辞めずに今に至りますが、当人のメンタルを考えるなら至極真っ当な助言でしょう。

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少し体調が回復してから、上のような記事でまとめた次第です。


京都大学の卒後の道


自分がこんなにもくよくよしている時期はまさに、他の人たちが就活なり院試勉強なりに当たっている時期でした。自分はそれらに向かい合わなかったため、卒後の進路は未定のまま、ずるずると時間が過ぎることになります。


陰で他大のの医学部学士編入試験に挑戦していたのですが、残念ながら、全敗となりました。

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そうして2021年になり、自分はまさに、学んできたことを生かしてこの先何をするのかという選択に迫られることになりました。


今の段階でそれは決まっていませんが、しかし自分の気持ちはある程度固まっているようにも思われます。


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僕は自分の文章で戦いたいと、今は思っているところです。またこの先この記事を更新するときには、新たな進展があることを望んでいます。