まず読んで欲しい8つの記事と、当ブログの歴史

はじめまして。


この度は、ブログ『おかえり、春の丘』にお越しいただき、本当にありがとうございます。


当ブログを運営している、岡 晴馬(おか はるま)です。


特に自慢できるものがないものの、辛うじて勉強だけは少しできた僕は、中高一貫の都内の進学校を卒業し、京都大学に入学。在学時は、総合人間学部において自死の研究をつづけました。


「軽いトラウマ障害があったりするかもね」と、初めて行った心療内科のクリニックでこのように言われたのが、ちょうど大学一年生を終えようとする頃でした。いろいろと考えてしまうわりに答えは出ない、そんな自分はいったいどこを生きているのでしょうか。


今の環境に至るまで、わざわざ関東から京都へ来たことや、工学部に理系として一度入学したものを諦めて総合人間学部に転学部したことなど、様々な決断がありました。


このブログを運営しようと思ったきっかけや、今の考えなどを、時系列に、まず読んで欲しいいくつかの記事とともに綴る場にしたいと思っています。



2016年、自分が高校生だったころまでその話は遡ります。




高3の喪失

ちょうど高2から高3へと進級し、これから最後の一年だねと、高3の期待と受験勉強への不安を同時に抱えていた、その頃の話です。4月の初めでしたので桜もちらほらと咲き始め、一か月後には運動会を控えていました。高校での最後の行事になるため、クラスの士気もその頃ピークに達していたように思います。


僕は、クラスの友人を、自死で失いました。


人を失うというのは喪失感がとても大きく、何をする気にもなりませんでした。当然、一か月後くらいに控えていた運動会も彼とは一緒に参加はできず、そのあとは、それを頭から振り払おうとするかのごとく、受験勉強をこなしました。


人間関係は面倒くさくなり、自分への自己肯定感がだんだんと消えていくのを自覚しました。自分は傷つかぬよう、心の中ではいつ嫌われてもいいように準備をしつつ、心の中では卑屈でドロドロしたものを抱えながら、表面上は明るい人間を演じようとしました。後ろから追ってくるような罪悪感を必死に振り切ろうとしたのでしょう。



他クラスの同級生からの脅迫まがいのメールが原因でした。こんなものを送りつけられていると話してくれたことがありましたが、死にたいほどに悩まされている時に気が付けなかった僕は「そんな気にしなくていいでしょ」と一蹴したことがあります。春休みが明け、友人が亡くなったのも知らず、初めて彼が学校を休んだ日には、自分は何も知らぬ顔で彼に「おーい、生きてる?」とLINEをしていました。



自分の恥ずべき無知に絶望し、贖罪の念に駆られることとなりましたが、それを周りの人間には悟られてはいけないとも思い、必死に隠しました。



自分の中に、2つの人格が出来た瞬間でした。自分を見つめる時の内省的な視点と、他者に顔を合わせる時の俯瞰的な視点は、僕の中でなかなか合致してくれませんでした。




捨てられた故郷


大学受験は無事に一年目で終わり、現役で京都大学の合格ももらい進学をしたのですが、当時は研究をした総合人間学部ではなく、工学部の建築学科に入学をしていました。


もともと自分は数学などの理系科目の方が好きだったし、あとは、なんか建築士ってかっこよくないか、という、それくらいの気持ちです。


普通にそこそこの単位を取り、あとは所属していた部活動でガシガシ運動をして、という生活をしていました。


お世辞にも真面目な学生とは言えませんでした。単位はそこそこに落としていたし、取った単位も合格点ぎりぎりのものがほとんどでした。入学前のイメージと、入学してから感じ取る雰囲気には大きな差があるように感じます。卒業をするため、単位をとるためと、何か痛烈に学びたいことがあるわけでもないのに惰性で続ける勉強にも嫌気がさしてきた僕は、大学二年生に進級したころから、他の学部ではどんなことをやっているのだろうと気になり、他学部の授業に潜ってみるようになりました。


学部の必修授業の課題である模型を作るのにも疲れ、他学部の授業をぼうっと眺めることで休憩としていたある日、とある授業でこのセリフに出会ったのです。



本当に価値ある生き方、意味ある生き方、充実した生き方とはなんなのか? 自分は何をすべきか、何ができるか、何をやりたいのか? 何が正しくて、何が間違っているのか?



総合人間学部での心理学系の授業で、確かスライドの一部だったかな、に出てきたセリフです。ただの思春期にありがちな素朴な疑問ですが、でもこういう絶対に答えが出ないようなものに本気で挑んでみるのって、ありだなって思いました。


もとから僕が求めていたのは、恐らくこのようなものだったのです。高校三年生の時からずっと抱えていた自分の気持ちに腹を括り、大学を卒業するころには自分の気持ちに一つの結論が出せるような―それがたとえ絶対的な正解でなくとも―そんな未来を心の中ではずっと求めていたのではないかと、気付かされたような気がしました。


こうしたことを本気で考えられるのなら、今までよりも自分に違和感のない生き方ができるだろうか、と思いました。時々自分を否定するような生き方をするくらいなら、どこかで一度しっかり向き合うタイミングが必要なことは、自分でも気がついていたのでしょう。



これになら、少なくとも製図室で模型を作るよりは情熱を注げられると思ったのです。友人を失ってから抱えていたもやもやの正体に、少し近づける気がしました。



多少のリスクはとったとしても、ここで妥協はしてはいけない気がしました。かくして、工学部から総合人間学部へと、転学部をしたのでした。


その時に書いたのが、このブログの記念すべき初記事です。

京都大学の転学部

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京都大学で理系を捨てるというのは、やはり愚かな行為みたいです。最終的に後押ししてくれた親ですら、はじめはかなり反対されました。


でも、ふつふつと湧いてきた期待が、確かにありました。ちょっとだけワクワクしました。


研究された自死


かくして転学部に成功し、運よく留年もすることがなかった自分は、総合人間学部の三回生として受け入れられることになりました。そこで感じる世界は、今までとは全く異なるものでした。


ここまで自分にとっての世界が変わったのはなぜかと言うと、それはこの記事で、このように書きました。

②「普通」に襲われずに生きるということ

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考えていたことが「○○になりたい」だけで、「○○をこうしたい」ではなかったから。

建築士になるのは憧れていたけど、日本の建築をこうしたいとか、こんな空間を作り出すために勉強してみたい、みたいな感情はさらさらなかったのである。そしてそれを、大学の前半では僕は見つけられなかった。代わりにふつふつと湧いてきたのは、僕が高校で友人を自死で亡くして以来のモヤモヤとした感情に対する処方箋を必要とする気持ちだった。

だから、転学部してからは、それはそれは上手くいった。自死に関する世間のイメージをこうしたいという強い気持ちがあったし、心理学や社会学を勉強して得られた知識が全て過去の自分につながった。とても面白かった。建築学科では1を割っていたGPAは、今になっては3を超えた。


勉強が、今までとは段違いに生き生きしたものとなりました。今までは知らなかった知識が、自分の頭に足りなかった穴を埋めていく感じがして、これが勉強かと知ったような気持ちになるほどでした。


そうして3.4回生の間は、総合人間学部 人間科学系 人間形成論分野の授業を取りながら、ずっと自死を研究しました。


主に取り扱ったのはDurkheim(デュルケーム)という社会学者の提唱する社会分業論と自殺論であり、これを参考にしつつ、社会形式の変容と自殺率の変動の相関を研究しました。人に期待される"役割"と、役割を演じることで達成される個人の表層的な"役柄"を分離したうえでその関係を明治時代からまとめ直すことを行いました。


なるべく専門用語を遣わずにこの記事でまとめたのが、以下の三記事です。前、中、後編の三つでまとめています。

③~⑤自殺の社会図研究の要約

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右も左も分からない状態から二年間でまとめ上げたにしては、卒論もある程度の体は為したと思います。



転学部をした目標のほとんどは達成されましたが、しかしその過程において副作用もありました。


悪夢と汗

異変を感じ始めたのは、三回生の冬頃でした。転学部して半年ちょっとが過ぎたころであり、自分はこの頃、京都の自死遺族の会に出席させてもらって話を聞くことで、当事者研究の一環のようなものを行っていました。


ちょうどそのころ、亡くなった友人の裁判も佳境を迎えていました。自殺と加害の関係が完全に認められることはありませんでした。裁判に必要になる書類なども目にさせてもらううちに、友人の知らない一面にも多く気付かされました。


こうするうちに、気付かぬ間に自分を追い詰めたようです。寝るたびに、周りの人間だけが銃殺されていき自分だけ生き残る悪夢を見ては、起きて汗がびっしょりだったり、何もわからず突然涙が出たりと、異変を薄々と感じました。ある日、図書館から出たときにめまいがしてうずくまってしまったのをきっかけに、精神科に行くことにしました。ちょうど、部活の引退を間近に控えた三月ごろでした。


診てもらった結果、鬱病など、精神病では一切ありませんでした。学部で学ぶときに自分の症状は鬱ほど深刻でないことは理解していましたが、しかし自分のこの言いようもない辛さに病名をつけてもらうことであなたの気持ちは病気によるものだから仕方ないものだと言ってもらいたかった側面がありました。


部活の引退を間近に控えていましたが部活に行ける体調でもありませんでした。何も話せぬまま迷惑しかかけていないと自分を責めた日は、今でもよく思い出せます。情けない限りです。


ちょうどこのころから、一つの悩みが尽きなくなりました。



自分の学びたいことを学ぶことが自己の破壊につながる道を、選んでもいいのだろうか



というものです。


この時に診てもらった精神科医の方に言われたのを思い出します。


「その勉強は君には向いていないよ、それをすると君が先につぶれる」


それでもやめられませんでした。自殺を考える自分は既にアイデンティティと同化していました。こういうところで屈せず頑固な人間なのが、自分の長所でもあり短所でもあることは重々承知していることなのですが。


友人の事件を踏まえたうえでの自分の研究―即ち道徳的行動―と、自己を破壊しないために研究をやめるという道―即ち医学的行動―の狭間のどこを進むべきかという課題が、自分の中でなかなか解決されませんでした。


ある程度は体の調子も戻り、以下のようにまとめることができるまで、時間がかかりました。

⑥自分で死んだ故人を"許す"ということ

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京都大学の卒業


なにより問題だったのは、上に書いたような体の不調を訴えていた時期は、通常なら就活なり院試勉強なり、進路を確定させる時期でした。そのどちらも行わなかった自分は、大学を卒業した後にやることのないモラトリアム人間と化しました。


体の不調が出始めたことでミクロ視点での勉強に惹かれていた自分は医学部への編入試験に取り組んでいましたが、敷居の高い試験に最後まで認められることはありませんでした。

⑦医学部編入の軌跡

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こんな僕には、何も残っていませんでした。周りの同級生が着実に未来を手にする中で、僕一人がモラトリアム期間で、不定形でした。未来への切符を何も持っていなかった自分が、唯一持っていたもの。振りかえって全て晒し書いたのが以下の記事です。

⑧卒業と私の体
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ここに書く通り、とにかく表現することをやめない人生を歩もうと思っています。


私の体は私である。そう胸を張れる人生に、今一度賭けてみようと思います。


社会の声なき声をいかに拾うことができるか。それは作品として表現するもよし、このブログで表現するもよし。周りからは何と馬鹿にされようと、自分の指が生む資産で生きようと思います。




何もない自分でも応援してくださる様々な人に恩返しができるように、このブログでも思いを伝え続けようと思いますので、今後とも、『おかえり、春の丘』をよろしくお願いいたします。




岡晴馬