「京都・自死遺族の会」と、僕の鬱。【後章】

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鉄は熱いうちに打てと。この感情、この思い、色々と、すべて忘れないために、早めにしっかりと記しておこうと思います。

数日前に書きました記事の、続編です。まだお読みになっていない方は、こちらからご覧ください。


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前回では主に、自死遺族の会に向かうにあたっての自分の負の感情に向き合いました。とことん暗い気持ちと向かい合ったことで分かったこともありましたが、しかし、今回こうして生身の人間に話を聞こうと飛び込んだことで得られたものはそれより大きいものでした。


得られたこと、感じたこと、なるべく詳細に書き記しておきたいと思います。


まずは、当「自死遺族の会」の説明をさせてください。


*前回の記事において説明が足りなかったために補足しておくと、自分は自死遺族ではありません。自分の大学の学部での研究が「マイノリティ自殺」に関してであり、その話を聞かせていただける場の機会として、自分は自死遺族の会に参加しています。遺族でなくてもいいのか、など、詳しい説明においては以下においてさせてもらいます。


自死遺族の会とは。


簡単に説明してしまうのであれば、自死で家族を亡くした方が集まって話し合うことで、お互いの経験を共有しあおう、というものです。


この自死遺族の会は、全国ほとんどの都道府県に存在しており、そしてほとんどが自助グループによるものです。


自助グループというのは、専門家を含まない、同じ悩みを抱える人たちが自主的に集合し、会合を自主運営するものです。「支援グループ」の反対語であり、たとえば学校のカウンセリングルームに行って話を聞いてもらうとか、精神科に行って診断をもらうとか、そうしたものは「支援グループ」に属されます。


自死遺族の会がこうした自助グループであることのメリットなどに関しては、また後程述べさせてもらうとして、今回参加したのは、自分の住んでいる土地でもある京都において。たまたま自転車で行ける距離でした。


参加したのはこちらです。



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(チラシより引用)


京都の自死遺族の会は、「こころのカフェきょうと」という名前で活動をされています。福祉センターの一室などを借り、同じ境遇の方同士で集まる、月に2回ほどの「例会」を基本の活動としているのですが、12月はたまたまイベントの開催月だったようで、上のチラシにもありますように、大学教授の講演であったり音楽の鑑賞などが催されました。この時期に参加することができたのも、かなりの幸運であったかなと思います。


このイベントに関しては一般の方の参加も受け付けられていました。大体、遺族でない方も3割くらいおられたようです。「遺族ではないが、故人と生前かかわりがあった」という方がほとんどのようです。


そしてこの「こころのカフェきょうと」の代表は石倉紘子さんという方で、どうやらもうすぐ代表ではなくなられるようですが、参加の旨を伝える電話をさせていただいた際にも、丁寧に受け答えしていただきました。講演会においても音楽の鑑賞会においても、この石倉さんという方の知り合いを紹介して招待なさったということで、特に講演をいただいた田辺先生に関しては、北海道から来てくださっているということでした。この先生からも貴重な意見を聞くことができ、このことに関しても、後程に書かせてもらいます。


さて、会場は100人少しが入れるほどのコンサートホールであり、4~5人で囲むテーブルがいくつもあり、壇上での話を聞かせてもらうといった形でありました。ぱっと周りを見た感じでは、40歳くらいが平均年齢だったかなと感じます。20代での参加者は、ほかにいなかったと断言はできませんが、おそらく僕だけだったと思います。かなりの疎外感はあったのですが、外側の席を選んでいた僕に対して、石倉さんに、もっと中へどうぞと声をかけていただいたのも、かなり救われました。


当日の進行に関しては上のチラシに書かれていた通りでした。余談ですが、アルゼンチンタンゴは初めて聞きました。音楽の「お」の字も分からないド素人なのできれいだなーくらいしか分かりませんでしたが、曲名「Nocturne」だけは意味が分かって嬉しかったです。たしか、「夜想曲」とかですよね(笑)。



さて、大まかですがこんなところでしょうか。自分が話を聞いたのは、以下の2場面においてです。

①田辺教授による講演

②フリータイムによる個人的な質問(20分ほど付き合っていただきました)

つまり実質一人からしかほとんど話を聞けておらず、ほかの方からお話を伺うことは時間などの関係上できなかったのですが、しかしそれだけでも、様々な心を打つ話がありました。特に心に残ったことを、以下の段落においてまとめたいと思います。


自死についての、さまざまな会話。


自分にとっても、かなり胸を打つものばかりでした。多くはなってしまうと思いますが、ただ一つお伝えしたいのは、すべてを読んでほしいという目的で書いてはおりません。大体、心に残った順で上から書かれているとは思うのですが、「ちょっとナニコレ」くらいの感覚で読んでいただいて構いません。自分がここで最も伝えたいのは、話を聞き聞いてもらえる環境がどこにも存在しているのだというこの1点に尽きます。そこでの体験は当然人それぞれであり、何を感じ何を思うも自由です。僕が抱いた感情は共有されしも押し付けられるべきではないのです。


では、ひとつひとつ、丁寧に記していきたいと思います。

自殺と自死は、何が違うのか


そもそもの定義のようなお話です。自死遺族の会と聞いて、「自殺」ではなく自死という表現を使うのだ、と思われた方もいるのではないでしょうか。


答えを先に書いてしまうと、表す行為自体は、まず同じで一切変わりません。しかし、個人の尊厳を守るという観点より、「自死」という言葉が最近多く使われているということのようです。


ある会合において、一人の自死遺族の方が、このように言われたようなんです。



「私の息子は誰も殺してなんかいない。ただ死を選んだだけなのに、なぜ人を殺したような表現にならないといけないのか」



「殺す」という表現に対する言い回し、イメージを払しょくするために、自死という表現が用いられています。特定非営利活動法人自死遺族サポートセンターのページにおいても、『2013年3月に島根県が県の「自殺対策総合計画」における表現をすべて「自死」に統一しました。』という記述があります。


自死が辛い、1番の理由


自死で遺族を亡くした際に、残された人の心には様々な傷が残るわけですが、それを「悲嘆(mourning)」と訳したのが、Bowlby(ボウルビィ)です。心理学の界隈では少し有名で、母親へのアタッチメントなどをもとに、「愛着」の理論を提唱した人です。


そしてその悲嘆から、愛する対象を亡くした喪失感を、どのように自分の中で受容させていくのか。その現実を受け入れる段階を、Freudフロイト)は「喪の作業(Grief Work)」と呼びました。


この「喪の作業」というものが、人を亡くした時より行われるわけですが、ここにおいて、何よりも辛いのは


津波ごっこはやめてはいけない」


ということなんです。東日本大震災の後、親を亡くした子供などが、津波ごっこと題して、ザブーンなんて言って、遊ぶわけです。しかしこれを大人は、「不謹慎だから」と言って止めてはいけないんです。



人を亡くした悲しみなどを、成長する段階で受け入れるには、津波ごっこをするしかないのです。津波ごっこでしか、人は報われない、と言うのです。



なんて悲しいことなんだろうとあまりに感じてしまったのですが、しかし、自死遺族にとってはこの津波ごっこすらできていないというのが多くの現状です。


自死遺族は、様々な罪悪感を抱えることが多いのは言うまでもないでしょう。なぜ気づけなかったか、なぜ止められなかったか、自分は何をしていたのか。自責へと心理状況が向いていく際に、故人を弔ってあげる心理は追いついていけないのです。


自分は亡くなったあの人の親族として失格である、自分になんて弔う権利はないと。そうなれば、辛さはどんどん内向します。自責の念より、自死で親族を亡くした辛さを周りに言うことなんてできなくなっていくのです。自死であるがゆえに、遺族がそれについて話し合う機会というものはどんどん封印されていきます。


こうしたことが、「自助グループ」としての遺族の会の成立の発端となったわけですが、これは他の何にも代えられない、自死であるが故の辛さでした。


話を聞く以上にすべきことはない


これは皆さんが口をそろえておっしゃっていたことでした。

※この節においては精神科関係の方面に失礼な表現となることがあると思います。ただし遺族の方の思いであるということで、一意見であるということをどうか寛大に許していただきたいです。


自殺者は意外と、精神科の門を一度は叩いていることが多いそうです。しかし精神科医は、操作的診断に基づいて薬を出すだけであると。


「操作的診断」というのは、精神疾患の分類や診断で、一定の診断基準の項目に該当するかどうかを評価し、決められている項目を満たしているかどうかで診断する方法のことです。日本ではICDとDSMが用いられていて、数十年に一度ほどのペースで改定が行われながら変更を重ね、有名なDSMのほうではDSM-5が発表されたことで精神疾患の日本語診断名が統一されました。


話が少しそれましたが、つまり、あなたはこれとこれに当てはまって点数高いから鬱病だね、みたいに、操作的診断に基づく診断ばかりされたとて、その人の話に寄り添えられる体験というものは意外と少ないのです。


だからまずは人の話をしっかりと聞くこと。今回でいうならば遺族の方の声に耳を傾ける、これよりほかにはありません。


様々な文献を読むとか、そうした勉強は否定されるべきではありませんが、しかしそうした書面などに目が行き過ぎて頭でっかちになってしまうのはあまりにも本末転倒であり、話を聞いたうえで分からなかったところを勉強するという流れが本来は妥当です。


そしてそこに、

①専門家がいないこと
②同じ境遇の人間が複数いること

このふたつが大切であることもさらに述べられていました。先ほど述べた「自助グループであることの利点」もここにあります。専門家がいると頭でっかちになりやすいです。理ではなく情で処理をすることのほうが、先ほども述べた「喪の作業」に合致しています。



君はね、屍を掘り起こしているんじゃないんだよ


講演会後のフリータイムにおいて、機会があったので田辺教授にお話を伺いました。主には、自分が大学で勉強をしていることを述べたうえで、このような題材において学業を進める場合どうしたところから始めれば…みたいなことを主に伺ったのですが(これに関しては様々な遺族の話を聞くということの重要性を話していただき、それは上にてまとめさせてもらいました)、それと同時に、自分の感情に関しても少し相談をしました。


前章にて一番多く書きました、「この勉強をすることで、多くの人を苦しめる」という感情に関してでした。僕はこの先も、いろんな人の触れたくない過去にどんどん手を出すことになる。まるで屍を掘り起こすような。


この話をしたとき、先生は、「君はね、屍を掘り起こしているんじゃないんだよ」。これに続いて次のようにおっしゃってくださったんです。



君は愛する人とのスピリチュアルな関係を表現しようとしているだけなんだよ



涙が出そうになりました。ここまでそっと優しく、力強く肯定してくれる言葉があるのかと、逆に耳を疑いました。


僕のしていることは、ただの「表現」だったようです。ここまで力強い言葉に支えてもらえるのであればどこまでも進めると思いました。


他人のひとつの言葉でよくそこまで変わるもんだなと思われても仕方ないとは思います。


しかし、しょうがないんです。自分の気持ちが人に言えないんだ、と、そうした周りの目を気にしないといけない世界線で生きてきたんです。他人の言葉を武器に戦えるのであれば、その感謝だけ忘れずに僕は戦うことができます。本当に、力強く、ありがたい言葉でした。


はげましが傷つけるということ


自死遺族の方などに対して、表現などで不快な思いをさせることがあるということは、最も頭に入れておかないといけない事実でもあるでしょう。

「亡くなった兄の分まで頑張れ」

「お前がめそめそしてちゃ、母さんも報われない」

「まだ子供がいたから良かった」

などなど、文に起こしたら失礼だなとわかる表現でも、当人には一切の悪気はなくても、ふと言ってしまうことがあります。


田辺教授は、奥さんを亡くした際、その時の気持ちを語ったときに「はあ、それが喪失感ということですかね」と言われた時、「首を絞めてやろうかと思った」ことを述べていました。なぜ、感情をお前にカテゴライズされなければならないのだと。


念には念を入れた配慮は当然必要です。



僕がすべきこと、僕にしかできないこと。


このような似た思いを抱えた皆さんの場に混じらせてもらったことで、さまざまな発見がありました。主なものは上にまとめたとおりですが、最後に、これらを踏まえ、自分が何をすべきか、何をしたいのかを述べたいと思います。


自分がしたいことは、「発信」であると、この一点に尽きます。自分の考えを散らかしたいというよりかは、ただただ知ってほしい。


今回のことでいうならば、一人で悩まずに話を聞いてもらえる環境があるよということ、ただそれだけを知っていただきたいのです。


教授にも、以下のように言っていただきました。


「自分は自死という題材に向けて勉強もしたし、講演会なんかもしてきたわけだけど、しかし自分はこんなことをしているのだと外界に向け発信するようなことはしていない。もしそれをしてくれる存在があるのだとすれば、間違いなく若い世代だろう」


と。


周りどこを見ても大学生なんていなかったこの会でしたが、しかし同時にそれは自分にしかできないことでもありました。このブログとともに、まだまだ成長していく所存です。よろしくお願いいたします。



最後に、「こころのカフェきょうと」のリンクを以下に貼らせていただきます。その他の各都道府県においても、「都道府県 自死遺族の会」と検索していただければ出てくるでしょう。


kokocafe.org



今回かかわってくださった様々な方たちに、感謝の思いを忘れず、二章に及んだ思考録を閉じさせていただきます。





おわり。