本当の意味で「考える」ためにすべき、たった1つのこと。

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常日頃から自分は、考えすぎてしまう自分との格闘に悩まされました。

しかし考えすぎてしまう場面において、新しい思考法というものは、ほとんど何も生まれませんでした。泥沼に、はまっているだけなんです。

だから、そこで一つ結論として下したのは、「考えすぎていると感じたときほど何も考えていない」ということでした。

では本当の意味で考えているというのは、いったいどのようなことなのでしょうか?「考える」を考えてみます。

「考える」とは…ずばり?


さて、何かの努力の末に結果を出せる人間というのは、少なからず一定数いるわけですが、そうした成功している人間を見てみたりした時に、有機的に脳を遣えていると感じる人間がしていることには、共通点がありました。



それは頭以外に何かしらで体を使うということです。



例えば、何かしら疑問点に感じたとき、そのことに関して誰かと話し合うということ。ここでは口を使っています。何かしら自分の思いを相手にぶつけることで、帰ってくる意見もあるでしょうし、相手が仮にいなかったとしても、自分の声を自分で聞くということで客観的視点は生まれています。


また、辛い時にはノートに書き起こせなんて言葉も聞いたことはないですか?

これもこの一種ですよね。僕も、例えば失恋したときなんかにその時の自分の気持ちをスマホのメモにまとめたりしたことなんかがありました。

でもこれって実はすごくて、文字に起こしたときって、意外と印象が違うんです。自分は考えに考え抜いたつもりでも、いざ書いてみたらほんの数行しか筆が進まなかったり、あるいは、何が書いてあるのか全く分からずそこではじめて自分の思考のあやふやさに気づいたり。


ここまでして、はじめて「自分は考えた」と言えるのではないかと、自分は考えます。


そして、ここまでしたことで、何が変わっているんでしょうか。ここで劇的に変わっているあなたの一面があることに気付いてほしいんです。


自分のことはやっぱり、空から見なきゃダメ


ちょっと上でもすでに出してしまったキーワードではあるのですが、こうした思考のすべての共通点は、「自分を客観視している」という点、ここがすべてです。


あなたが自分で悩んでいる場面を想像してください。

何でこんなに頑張ってるのに報われないんだ

何であいつはこんなにも身勝手なんだ

もっと環境が違ったら上手くいくはずなのに


こうした悩み、もう全部です、すべて外から見ないといけない。客観視しましょう。



人間には、行為者ー観察者の帰属の相違というものが存在します。「帰属」というのは、何か起こったときにその原因を「これのせいだ」と決定する作業のことですが、その帰属は、行為者が自分なのか、それとも観察している他人なのかで大きく結果が変わることが指摘されています。


他者の行為内的要因が重視され、状況的要因は無視されがちになってしまうんです。
逆に、自分の行為には状況的要因が重視され、内的要因は無視されがちになってしまいます。


つまり、他人が誰かを殴っているのを見たときに、行為者自身は「挑発されたから」(これは他人が悪いとしているので状況要因ですね)と帰属しやすいのに対し、観察者は「攻撃的な性格だからな」(これは殴った人間の内面が悪いとしているので内的要因ですね)という帰属をしがちです。



上の悩みにおいてもそうです。自分の脳みそから出ずに主観的に悩んでいるうちは、原因帰属は状況要因の範疇を出にくいです。



出たいと思うのなら、自分をまず外から見てみないといけません。そうすると上の悩みも、

努力の方法にも、もっと改善の余地があるかもしれない

自分の態度では相手も従いにくいかもしれない

環境を選ぶところから始めたほうが良いだろうか



などなど、内的要因を強めることが可能となります。自分の悩みですから他人にすり替えることまでは不可能ですが、しかし客観的に観察するための第一歩として「話す」「書き起こす」などの作業の重要性を、自分たちはもっと知るべきです。


僕は、このブログで考える。

こういう思考に気づかされたのは、実は自分は部活動のおかげでした。


自分がうまくなるために、うまい人のプレーをYouTubeで見たりして学ぼうとするわけですが、こんなことがしてみたいと思っても、まあ上手くいかないわけです。ここで、身体能力のせいだとか、個人の特質をあげつらって誤魔化すことで何とかしてきたんですが、西日本の選手権で、ちょっと高い観戦席でうまい人の試合を生で見ていた時に、ふっと気づいてしまったんです。


自分がYouTubeを見ている時の自分の視点と、自分が試合をしている時の視点は、まったくの別物である


ということでした。いやいや当たり前でしょうと思われるかもしれませんが、しかしこれはとても大事なことだとも思います。僕はもっともっと昔から、YouTubeで自分を見ているかのような視点で試合に臨むべきだったのです。もしくは、Go-proをつけて参戦しているかのような気持ちでYouTubeを見るべきだったのです。


そうして自分はスポーツに対しての客観視の重要性を学んだのでした。



少し話はそれましたが、似たように、自分の心を知るためにこのブログがあるとも感じています。

www.mattsun.work


訳の分からないような破綻した思考録をここでまとめたのですが、しかしこれを書いたことも大きな価値がありました。


自分の鬱心理は、心が支配された時もめちゃくちゃでしたが、文字に書き起こしたときにはさらにはめちゃくちゃでした。書き起こすためにはその感情をまた想起せねばなりませんから、疲労もたまるし楽しいものではありません。


しかしこうした感情は、書き起こせぬ限りは、救われぬまま死んでいってしまうのみです。そのときの思いも、何でそんなことを思ったのかもあやふやなまま、消えてしまいます。


本当に大事なものは、見たくないものを見続けた果てにあるものだと思ってきました。それだけを心の支えにしてきたので、このブログも同時に僕の心の支えでもあります。



まだまだ、このブログを媒介に、自分は考え続けます。




おわり。