京都大学の、すきじゃないところ。

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さて、今回もまた京都大学の記事を書いていこうと思います。前回は総合人間学部を紹介し、今回はどうしようと思ったのですが、ちょっと視点を変え、現在の学習環境のあまり好きじゃないところを書いてみようと思います。


最終的には、文部科学省への文句みたいになってしまいそうですが(笑)、しかし嫌いなところを見つめてみることでも新しい発見があることは間違いないと思っています。


そして今回軸に話すのは単位の実質化についてです。


ここに、僕の嫌いなものが、仰山つまっています。

単位の実質化とは?


高校生などにもわかりやすいように、まず単位を説明しましょう。単位とは、半期(高校でいう学期)のひとつの授業を通して、「この授業を修めたと認めます」という証拠として与えられるものです。京大では1授業につき基本2単位(実験や実習など異なる場合もあります)で、卒業までの4年間で大体140くらいの単位を取得しなければなりません。この単位は、期末試験によって点数を出されるものもあれば、期末のレポートや出席によって出されるものなど様々です。


しかし昨今、


この単位があまりに簡単に生徒にばらまかれているのではないか?


というのが、日本では問題になってきたわけです。一つの単位を得るために、それに見合った努力を学生はしてなくない?てことですね。そのために打ち出されたのが、単位の実質化というわけです。


実際にはどのようなものでしょうか?以下は、文部科学省より引用した文面です。

2 単位制度の実質化
(1) 現状と課題
(ア) アメリカなどの諸外国と同様,我が国の大学教育のシステムは,単位制度を採用しており,この的確な運用は,教育の質の維持,国際的な通用性の確保の観点から不可欠である。従来単位制度を取っていなかった欧州においても,欧州高等教育圏の実現を目指す一環として,その導入に踏み切っており,単位制度の考え方は一種の国際標準となってきている。
(イ) 我が国の単位制度は,授業時間外に必要な学修等を考慮して,45時間相当の学修量をもって1単位と定めており,制度上要請される学習時間としては,諸外国と比較して低いわけではない。
 しかしながら,内閣府の調査(平成12年度)では,学外の勉強を「ほとんどしていない」者が約半数に達しており,最近の研究者の調査でも,学習時間の少ない学生が相当の割合に上ることが確認されている。総務省の調査(平成18年度)では,学内外を通じた学習時間(土日を含む一日平均)は,3時間30分である。国際的な比較からも,我が国の大学生の学習時間は短い。
 こうした実態は,単位制度の趣旨を踏まえて運用されているとは言い難い(図表2-8~2-13)。
(ウ) 学生の学習時間は,学習成果の達成にも密接に関連すると思われる。
 単位制度の実質化の必要性は,これまでも指摘され,改善策が提言されてきており,シラバス,セメスター制,キャップ制,GPA(Grade Point Average)などの諸手法が導入されてきた。文部科学省の調査(平成18年度)では,各大学では,これらの取組は相当に普及しており,例えば,9割以上の大学がすべての授業科目のシラバスを作成している(図表2-17,2-18)。
 しかし,学習時間の実態を鑑みると,これらの取組が十分に機能しているとは言えない。その原因の一つとして,諸手法の導入に当たって,単位制度の実質化とのかかわりが十分に理解されていない,あるいは相互連携の必要性が認識されていない可能性が考えられる。
 例えば,シラバスにおいて「準備学習等についての具体的な指示」を盛り込んでいる大学は約半数にとどまっており,学生が必要な準備学習等を行ったり,教員がこれを前提とした授業を実施する環境にないことが懸念される。また,キャップ制については,一年間の上限単位数が多過ぎて,各年次にわたって適切に授業科目を履修するという趣旨に必ずしも沿っていない事例も見られる。
(2) 改革の方向
(ア) このような状況を踏まえ,単位制度の国際的な通用性の観点から,学習時間の実態を国際的に遜色(そんしよく)ない水準にすることを目指して,総合的な取組を進める必要がある。
 その前提として,1単位当たりの授業時間数が,大学設置基準の規定に沿っている必要がある。具体的には,講義や実習等の授業の方法に応じて15~45時間とされており,講義であれば1単位当たり最低でも15時間の確保が必要とされる。これには定期試験の期間を含めてはならない。
 各大学では,学習時間などの実態を把握した上で,その結果を教育内容・方法の改善に生かすことが必要である。また,教育課程の体系化を進めた上で,きめ細かな履修指導と学習支援の実施も求められる。
(イ) なお,学習時間の在り方を論じるに当たっては,学生の学習意欲等の問題のみに原因を求めることは適当ではない。学生生活において,アルバイトが相当の比重を占めるという実態があるが,経済的な困難を抱える学生が増大し,学習に専念できない状況が広がりつつある可能性を十分に認識しておく必要がある(図表2-12)。

かなり長い引用になってしまいましたが、自分にとって、これはあまり納得のできる文面ではありませんでした。次の章で詳しく話してみたいと思います。

全文は、以下にリンクを記載しますのでこちらからどうぞ。


www.mext.go.jp


「質」とはなにか?

さて、上の引用において、かなり気になったのが以下の部分です。


我が国の単位制度は,授業時間外に必要な学修等を考慮して,45時間相当の学修量をもって1単位と定めており,制度上要請される学習時間としては,諸外国と比較して低いわけではない。


大体は1授業2単位ですから、授業の時間を除いて90時間勉強しろ!ってことです。計算上、週5時間くらいになりますね。


自分はやはり、はなはだ疑問を感じずにはいられません。特に、以下の2つです。


①実質化と、「質」を上げるような方策にしては、時間により管理しようとしている。他国との比較といってもそもそも環境などが大きく違う中であまり同じ水準での比較になっているように感じることができない。

②ある授業の復習をしていた時などに、そこで得られた知見がほかの授業での内容に役に立つことだってあるわけであり、勉強というものは授業ごとにカテゴライズされるものではないはずである。


①に関してですが、これに関してはやはり、「質」というものに対する見直しがまず欠かせません。「何が分かったか」「何ができるようになったか」に重きを置くべきであるということは上の文科省のページにも書かれていることであり、そこに関しては全く賛同できますが、その基準を、勉強時間に置くべきではないと自分は考えます。別に、勉強しなくても授業を聞いただけで点数がとれるならば課外勉強なんてしなくていいし、そもそもこんな実質化を行ったところで勉強をしない人間がするようにはなりません。

②に関しては、これが一番の疑問でもあるのですが、勉強というものは総合力であるという自分の考えに基づいたとき、そもそも授業ごとにカテゴライズすることは意識的に避けるほうが望ましいです。例えば自分は、いじめ社会の分析の知見は、ジェンダー論の授業のセクシュアリティのマイノリティの考え方から得ることができました。こうしたことは他にもゴロゴロあるはずであり、上のような方策は学生の視野を狭めることにつながらないか?と懸念します。


さて、これらに対して、ではこうしたほうがいいというような解決策を提案できるほどではないので、ただの負け犬の遠吠えとなっているわけですが、しかしこの2つの疑問点をまとめられるとするなら、それは


面倒くさいという感情に対する否定


ということが、1つ言えるのではないでしょうか。これだけでは何を言っているかわからないと思うので、最後に噛み砕いて説明します。


面倒くさがりは素敵な素質である


即ち今回の話は、真面目に勉強をしない生徒、そしてそいつらに「お前らは不真面目だ!もっともっと勉強せえ!」と言っているような構図です。


でも、無理です。


僕含めですが、卒業に必要なだけの興味もない授業のレポートは、まあそりゃ、手を抜き適当にやります。何も面白くなかった中国語も、僕は一夜漬けで済ませました。


そんなの、しょうがなくないですか?


興味もないこと一生懸命もっと時間かけてやれなんて、そっちのほうがよっぽど苦痛です。大学がテストで単位をあげるよという決まりを提示してきたんだから僕らはそれをいかに力を省いて潜り抜けているかを考えているだけです。そしてそれを、まわりは「不真面目だ」って言ってくるんです。


ぼくは、世の学生は不真面目ではないと思います。不真面目に見えるとしても、学生の段階でまだやりたいことがないだけの人たちに「不真面目」という言葉を括り付けるのは、あまりに本質の見えていない妄想です。


そこで見えてくる、面倒くさがりという資質は肯定されてしかるべきものだと考えます。



なぜ、スマートフォンは生まれたのですか?



ぱかぱかガラケーを開いて、ちっちゃいボタンを押して、そんなのよりも一つの画面をささっとタッチで済ませるほうが楽だからです。



発明というのはすべて、面倒くさいものを避けるための試行錯誤の結果です。


面倒くさいものを避けるための方法が、現実逃避であったり非行であったりした場合にはそれは糾弾されるべきですが、そうでなければ、回り道から新しいものが生まれてくることのほうが多いわけです。そこで興味が出るものに向き合えればとことんそれに向き合えればそれでよいのです。


「楽をする」と「不真面目」は似ているようで全くの別物です。

ですから、不真面目な人間への対処と、楽をしている人間への対処も当然混同してはいけないと考えます。

単位の実質化、というのはどちらかというと前者のような印象を受けます。それをどう後者にしていくか。もっとほかにまだまだあると、僕は思います。







おわり。