ゼミで発表したらぼこぼこに叩かれた話。

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ちょっと嫌な思いをしたなっていう、思い出を書きます。


とは言っても、そんな大したことではなくて、心にちょっともやもやを残すような、そんな些細なことです。


自分の所属している、総合人間学部では、毎週ゼミ形式の授業があり、自分の卒業する際に提出する論文(いわゆる卒論ですね)における、研究経過を発表する機会があります。そこで、ある1人の方が、発表の際に、こんなことを言われていたのです。


それはね、もう前に色んな人がやってるから意味ないよ


特に反論などを挟む余地もなく、す〜っとその発表は流れたのですが、僕の中に、「あー、意味、ないんだ」と、なんか同情とは違いますが、なんか虚しい気分になったのでした。



前に同じ人がやったことを、発見することって、意味がないのでしょうか???

研究するということ



そもそも僕達は、一体なんのために研究をしているのでしょう。高校生などの学生であれば、一体なんのために勉強をしているのでしょう。



今、目の前で行われている授業は、何か新しいことを得るためにのみ使われないとならないのでしょうか??


意味はなくても、価値はある



もし、意味は無い、と断言されたとて、やはり反論はできないのかもしれません。だって、他人からしたら、本当に意味が無いからです。エジソンみたいに電気でも作れば、周りは「おお!」とはなるかもしれませんが、たとえば

暴力をふるうと、人は不快になる

とか、それを知ったとて周りは、それはそう、としか思いません。偉そうに言ったって、そんなの知ってるよ、としかならないのは当然です。


でもしかし、それを知ったときのあなたの発見というものは、生涯大事にされるべきである、というのは間違いありません。


暴力をふるうと人は不快になる、というのを、暴力事件のニュースを見て感じたでしょうか、それとも、あなたが本当に喧嘩で暴力をふるってしまって感じたでしょうか。どちらにせよ、自分自身でその結論にたどり着いたというそのことは、他には変えられない宝だと思って差し支えないのです。

今回は暴力と当たり前のことを例に出していますが、例えば他のことでも、あなたがそれを発見した時に、

「そんなの当たり前じゃん」
「なんで知らんかったん」
「そんなの知って何になるんだよ」

などなど、言ってくる人間はとことん言ってくるものだとして無視して構いません。ありきたりなひとつの結論だとしても、それに至るまでの道は無限に存在します。その無限の中のひとつを抱えていると言うだけで、恥ずべきことは何も無いのです。


研究は問いが全てである



「研究は問いが全てである」



これは、同じくゼミの授業での教授の言葉ですが、まさしくこの通りであると思います。文系の科目に限って話を進めていますので、理系とは違うところがあるかもしれませんが、勉強全般、だいたいこれは当てはまることと思います。


社会なんてものは、結果しか見てくれません。入試だって、就職だって、最後の勝負1回きりです。そこでの失敗は目につきますが、しかしその結果だけではなく、

「正しく問いを設定出来ているのか」

ということに、目を向けることこそが勉強であると心得ることです。



結果の違いは、途中の経路の修正で済むとしても、問いを間違えることには正しい結果の導出は見込めません。何回も試行錯誤し、正しい問いの設定をできるようになることが、勉強と言っても過言ではないと、僕は考えています。


過程は常識、結果は非常識


面白い文章を書く人というのは、このことをよく分かっています。

文章というのも、問の設定が全てであり、なるほどそこに目をつけたのか、という文章こそが聞き手を引きつけます。

しかし、勘違いしてはいけないのは、なにか新しい訳の分からないことを、いきなり問いとして持ってきている人間は、いないということです。

ラケットで野球をするな

わかりやすく説明するために、スポーツに例えます。


野球部に所属するあなたは、新しい戦術を開発するため、打ちにくいバットではなく、ラケットを持って、打席に望みました。


は??


となりますよね。

「斬新」「非常識」は、違うのです。

あなたは、問いを設定するところからいきなり非常識になっては、いけないのです。ルールを守れない人間に結果は降ってはきやしません。


あえて打ちにくいバットを使うというルールがあるからこそ、それに合わせたバットの振り方や腰の回し方など様々な組み合わせが出来てくるわけであって、それがあなたの個性となってくるわけです。


そしてその個性を出すには、初めは常識となるルールを知らなくてはなりません。誰もが持ちそうな疑問を、ふっと提示する、初めはそんな些細なところから始まります。

しかしそのルールという常識のレールに沿っていく中で、必ずあなたが飛躍できる瞬間がやってくるのです。


「そこでそんな着眼点を持ったのか」

「無視されてきたそこにスポットを当てたのか」


そこで初めてあなたの論を展開することが出来る。それまで、じっと待っておくしかありません。


つまり、非常識になるために常識を知り、そして非常識は常識からふと生まれるのです。


あなたには人の心を動かす力がある


もし人の心を動かす話がしたい、文章を書きたいのであれば、これだけは心に留めておくべきだと思います。


ありますよね、話が面白くなくて、早く終わるのを待つような、そんな体験。だいたいそれは、


ありきたりなまま最後まで終わる

いきなり非常識なことを吹っ掛けて誰もついてこれていない


この、どちらかです。

トークの話術だって、こうした常識があるからこそ、どこで話の転換点を入れようかとか、様々な戦略が生まれるわけです。

常識に沿った上でのその戦略があなたの個性、すなわち「非常識」であり、いきなり訳分からんことをふっかける人間に聴衆は集まりません。誰にしも例外はなく個性があるのに、それを出せていないのはこうした背景もある、ということを知って欲しいと思いました。




おわり。