「病気」の反対は「健常」ではない

さて今回は、

逆の発想をするべきタイミングとはいつか?

この問いにぶち当たったので、その思考録を今回は書いてみたいと思います。

「逆」とはなにか

たとえばみなさんは、次のように聞かれてなんと答えるでしょうか。

「成功」の反対は何か?

辞書的に言うのであれば、おそらく、「失敗」でしょう。何かをやって、上手く行けば成功、なんか上手くいかずに良くないことが起きたら失敗。この成功と失敗は、真逆のふたつのものとして捉えられるのが一般的だと思います。


ちょっと待った!!!


と問いかけるのが、今回の記事です。もう少し突き詰めて考えてみます。

言語相対論で用いられる、色の例


言語相対論だとか、言語表象論の話では、よくの話が持ち出されることが多いです。


どういうことかというと、たとえば、黒色と白色をふたつ見比べるとします。こっちは暗いから黒、こっちは明るいから白、とあなたは判断するでしょう。


しかしもしここで、グレーの色が現れて、これは白か黒か、と言われたら、


「まあどっちかと言うと白かな」

「真っ白ではないから、まあ黒かな」


と、おそらく人々の答えは二分化されるでしょう。


ん。。。いや??


いやいや馬鹿な。黒でも白でもないのだから、「これはグレーですよ」と答えるに決まっているじゃないか


当然ですね。曖昧なものに対して白黒つけるよりかは、その特性を表す文字色をぱっと言ってしまうのが、間違いなく最も正確でしょう。


しかしここで大事なのは、それはなぜかと聞かれれば、


「あなたがグレーという言葉を知っているから」


にほかならないのです。


それもそうですよね。もしもグレーの存在も名前も知らない人だったら、上のように黒か白かどっち寄りかでしか判断するしかなくないはずです。そして、その黒か白かでさえ、黒と判断できるのはその反対の色とされる白のおかげで、白と判断できるのはその反対の色とされる黒のおかげなのです。グレーに対して「グレー」という名前がつけられているがために、グレーがグレーと分かるのです。



白が成功で、黒が失敗、本当か?


この色に対して、白に失敗、黒に成功を当て嵌めて見て考えてみよう、と僕は考えました。


そして、


白の反対は黒ではないのではないか?


という考えに至ったのです。この発想の転換を図にしたとき、以下のような感じです。


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(境目がないので見にくくてすみません)


ではなく


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といった風に。



つまり、白と黒とは、

どっちかを取るための排反の2選択肢

ではなくて、逆のように見えしかし

ただ同時に存在するだけの連続した物体

である、ということです。僕たちはそのグラデーションの幅を、行ったり来たりと、ただ往復しているに過ぎないのです。


そして、この発想に至ることのできた1番の原因は、


「グレーを知ったこと」


これより他には無いのではないでしょうか。つまり白黒の二元論で考えてしまう原因は、グレーの無知であり、だとしたら、


成功と失敗の反対は「無」


ではありませんか?今回で言うならば、グレーに対する無知であり、成功と失敗の例で言うならば、「挑戦を諦めること」と言い換えられます。


「成功は失敗の母」だとか、「失敗を積んだ者にだけ成功が訪れる」とかいった言葉は、これで少ししっくりこないでしょうか?黒を知らぬ人間に、白は語れないのです。黒と白はただ連続していて、その反対があるとしたらそれは「知ろうとすることへの放棄」なのです。


「病気」を考えてみる


長~くなってしまいましたが、これらを前置きとして「病気」を考えてみたいと思います。

フロイトの鑑別診断論


今までの話とちょっとつながりそうなことを、フロイト自身がその鑑別診断論で語ってくださっているので、それを少し引用します。

なお、一般的に神経症と精神病の対立は、一方の神経症は了解可能かつ正常人の心理と連続したものであり、他方の精神病は了解という仕方によっては捉えられず、身体的な原因は精神活動における秘匿的な因果性(内因)によって生じたものとして理解される。同時に、臨床の現場では、神経症(ヒステリーや強迫神経症)は主として外来で精神療法的に治療され、精神病(パラノイア統合失調症、メランコリー、躁病)は精神病院の入院環境下で管理される、という住み分けが......


ここで注目すべきが、

神経症は了解可能かつ正常人の心理と連続したものであり」

という部分です。「了解」というのは、カール・ヤスパースの導入した精神医学による概念で、「患者の心的体験を観察者が『わかる』こと」という意味です。


※脚注。了解に関しては2種類あり、相手の心の状態を観察者の心の中に描き出して捉える、感情移入としての静的了解と、ある心理現象が先行する他の心的現象から発生していることが明白にわかること、即ち意味関連としての発生的了解(ex.愛する子供を失い鬱状態に陥ったことを理解する)の2種類に分かれます。



精神病に関してはさておくとして、神経症に関し、フロイトはここで、それ自体独立する病状ではなく、通常の人の原理と繋がった連続的なものであることをここで言っているのです。


「落ち込みやすいこと」と「気分障害

「切羽詰まった気分」と「強迫性障害


後者のような病気名としての「黒」は、前者のようなただの特性を示す「グレー」と繋がっているだけであり、そしてそれは「了解」をしてあげることが有効、ということです。

つまり、病気の反対は...?


だとしたら、病気の反対とはいったいなんでしょう。


病気に対する無知


ではありませんか??


「健常」ではないと思うのです。


イムリーな話題として、芸能人の徳井義実さんが、脱税などにより芸能活動を自粛するというニュースがありました。これに対し、

徳井義実ADHDである

というツイートが多く流れ、「徳井義実」と検索するだけで「発達障害」「ADHD」と言った言葉が続くようにすらなりました。



とても腹が立ちました。



なぜ1度も喋ったことの無い人間に障害を貼ることができるのでしょうか?彼の人間性がルーズであるという延長でその行為が発生したというだけであり、その背景を了解するような心構えはあなたにあるのでしょうか。




もう1回書くと、「病気」「健常」は連続したものであり、その反対があるとしたらそれはその病に対する知への放棄です。


そして、さして知らないうちから白黒の二元論だけで考え黒のレッテルを貼るような行為は、その無知を晒しているだけの行為として恥じた方が良いと感じます。


無知は悪いことではなく、次へとつながる強みですが、自分の無知に、知りもしない他人を巻き込むべきではありません。



もっともっと、人の意識が変わればいいのに、と思いました。それと同時に、自分の中での病気に対する意識が変わったのも事実であり、ここからの経験に活かせればなぁ、とも思うのでした。






おわり。