自己紹介が、あなたの素質を隠してしまう。

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さて、今回は、「悩む」ということについて、少し考えてみたいと思います。悩んだことがない、なんて人間はまさかいないでしょう。悩むことは悪いことではないわけで、でもその構造を踏み間違えると、もったいない時間の使い方をしてしまいます。周りにいる人たちには、損な手段で悩んで欲しくありません。その人たちの、ほんとうにきれいな、宝のような素質を隠してしまうからです。今日も少し、おつきあいください。

 

 

 

 

 

「悩む」ことについて。

 

生きていくだけでつきまとう、「悩む」という現象ですが、この「悩む」を考えることは、ひとのこころを考える上でもとても大事なこととなってくると思います。『嫌われる勇気』で一躍有名になったアドラーの用いる心理学でも、

「人間の悩みの全ては対人関係に由来する」

と言われるほど、他者との関係とそれに付随する感情は影響の大きいものです。憂いが全て対人関係に由来すると言っても、ほんとうか!と思う人も多いと思います。これは、客観的にそういった事実が認められていると言うよりかは、主観的にそう捉えて生きる方が能動的に賢く生活することにつながる、というイメージであるほうが適切でしょう。詳しくは下の方でまた色々書きますが、ここで書かれている、

「由来する」

という言葉を、

「原因である」

という意味で捉えてはいけません。ここの勘違いを起こすことにより、損な手段で悩んでしまう人達がいます。どういうことかと言うのを説明したいと思います。

 

 

人を括るということ。

 

僕のしたい話が、大学での研究分野である「ラベリング」に帰着するので、まずはそこの説明からしたいと思います。過去のブログで、言葉の自殺ということでクィア理論について少々記述しましたので、そこも参照して貰えると嬉しいです。ラベリングというのは、簡単に言えば「お前はこんなやつだ!」と決めつけること、です。この話をわかりやすく噛み砕きたい時、僕は必ず発達障害の話をさし出します。

 

そもそも発達障害というのは日本で作られた言葉です。そして、障害という言葉が用いられることで、病理的なイメージを抱くことがみなさんは多いと思うのですが、治療すべき病状として発達障害という言葉が生まれたわけではありません。発達障害というのは教育的系統の中で生まれた言葉で、

「なんか教室に1人だけ、マジで勉強もできないし周りにもとけ込めないし、学習の遅いへんなやつがいるぞ」

「じゃあその人らを発達障害というくくりにしてしまおう!」

という流れのもと生まれた言葉であります。発達障害支援法なんてものもありますが、その条文を読んでみても、彼らが発達障害だと「ラベリング」しているその存在は、遠くの無関係な別物としか思われていないような淡白なもので、つまり、支援法を作ることで彼らを救いたいと言うよりかは、めんどい奴らをくくりつけて「支援しないと生きていけない存在」として分類をしたに過ぎないのです。一見優しいかのように見えますが、しかし手を差し伸べなければいけない存在として認めることで相手をマイナス1の存在にしてから支援をしても結局はプラマイ0になっているだけで、あたかも自分が相手にプラス1を施したかのような気分になる。そしてその原理に1番自分が気づいていない、ということは、精神分析の祖であるフロイトの論文『おとしめ』にも書かれているわけであります。ちょっと固く話してしまいましたが、例えば簡単な話、マラソン大会の下位4分の1のグループに、「のろま軍団」などと名前をつけたら、それは酷いことと思うでしょう。マラソンの居残り特訓するぞ、なんて言ったって、のろまと名前をつけたことでその人たちはその役割の範疇を出ません。同じことが、発達障害という造語によって行われてしまっているのです。これに関してはもっともっと危機感を持たないといけないことを僕は1番訴えたいです。

 

で、ラベリングを考えてみたところで元の話に少し戻しましょう。上で出した話のように、能力の低い他人をくくりつけるその行為は、外野から見てる分には「ひどいなぁ」という感想を持って観測できると思います。しかしこれと似たようなことは、私たちの身の回りでも頻繁に起きていると心得るべきです。様々なパターンの中で、今回採り上げたいのは「勘違い謙遜」をしてしまうことについてです。

 

自分を括るということ。

 この勘違い謙遜は、「周りの人間はあまり自分のことを認めてくれない」という感情に起因します。自分は努力をしているはずなのだが、しかし周りはあまり自分の価値を肯定してくれないような気がする。その時に「自分なんてまあ、それっぽっちの人間なので」という感情を抱くことがあると思います。こうした感情を抱いてしまうことはもうしょうがないことではあると思いますが、この感情をスタートとして思い悩むことがあるとしたら、それはやめた方がいいです。悩み始めたと思ったら、酒でも飲んで寝て無理やりにでも忘れた方がいいです(お酒は20歳から)。

 

なぜ、自分を括ってはいけないのか

 

これの問題なのは、他人を主体として悩んでしまっているところにあります。他人を主体として悩んでしまった瞬間に、あなたの価値の規範はどんどん他者へと移っていき、そしてそこで「僕は他者からあまり認められない存在なので」と口にしてしまった時、それが自分に対するラベリングになってしまっている、ということに気が付きますか?

 

自分に対するラべリング、このワードは以前の記事にも登場しました。よければ一緒にのぞいてみてください。

https://mattsun0383.hatenablog.com/entry/2019/08/24/111410

mattsun0383.hatenablog.com

 

 

人間の印象形成の性質として、ゲシュタルトというものがあります。これは、人がある人と接した時、第一印象や、あるいは事前にその人に対して聞いていた前情報などがその人に対する印象のほとんどを占め、そのあとの当人の行動などはその印象に付随するものとして与えられるに過ぎないという性質です。ギャップ萌えなんて言葉があるのもこの性質ゆえです。初めに見たものを正として捉えるから、そのあとの反対の行動は、それ単独としては捉えられずに、「こういうところもありながらこんなとこも」というような捉えられ方をするのです。

 

ですから、他人主体で悩み始めてしまい、認められない自分を憂いた瞬間、それが中核となり、それを聞いた周りの人間は、あなたのあなたに対するラベリングを印象として捉えてしまうことを心に留めておくべきです。

 

「所詮自分は下等生物なので」

「もう自分のことを異性としてとらえてくれる人はいない」

 

このように言う人がいるとすれば、なぜそうなのかと言えば

 

あなたがそう思っているから。あなたがあなたに対し自分はこういう人間だとラベリングをし、それを周りに紹介しているからなのです。

 

つまり、自己紹介は極力しない方が良いのです。でもしかし、どうしてそんなネガティブな自己紹介をしてしまうのでしょう。やはり、その方が、なのです。例えば、自分は周りに全く認めて貰えないことを憂いている人間の場合であれば、その憂いは、他人から「お前のことを認めない」と言われるくらいであればもう自分で先に「僕は認めて貰えない」ことにしておいてしまったほうが傷つかずにすんで楽だから、なのです。しかしこれを自分で認めることもまた、処難の業なのです。AだからBだと思っていたものは、実はBだからAであったなんてことはざらにあります(Aは認めて貰えないこと、Bは自分がダメであること)。こうした嘘の因果律に騙されて悩まないこと。人間たるもの、過去は変えられないのだからこの瞬間からどうしていくか、その一点しかありません。悩むのであれば、今の存在から自分に何が出来るのかを模索する、そこに集中すべきです。

 

自分から自分のことを発達障害だと思う必要はどこにもありません。もっともっと、目的のために自分はこれをする、そういう能動的な生き方をみんなすることが出来ます。自己紹介をするのであればそういう自分の一面を知ってもらうことを選択するのが良いでしょう。

 

 

 

 

 

とはいっても、やはり難しいものだとは思います。ネガティブな自己紹介をしてしまうことを否定したい訳ではなく、そういう感情が沸き起こってくることも否定したい訳でもなく、そうした自分を認めた上でどんな対処をできるのかなと言うことを考えることは大事な糧になるものと感じます。

 

ちょっと今回掻い摘んだ、嘘の因果律という言葉に関して、アドラー心理学などとも絡めながら、次の記事ではこのことに色々言及してみようかなと思います。

 

 

 

 

おわり。