あなたのしたい勉強は、役に立たない。

 

転学部をして半年が過ぎました。転学部に関しては

 

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ここに色々書いたので、こちらをよろしくお願いします。

 

さて、この8月、心理学検定なるものを受験しました。受かってるかどうか自信もなく、受かっていても落ちていてもギリギリでしょう。とまあ、ここでは結果についてはどうでもよく、その勉強過程についてです。3ヶ月ほどガッと集中して勉強してみましたが、総括してあまり面白いとは思えなかったのかな〜っていうのが、総じての感想です。すごい楽しかったんですけどね。面白いと楽しいは、僕の中では別です。どうしてそう思ったのかなってことを、色々自分なりに分析してみました。お付き合い下さい!!

 

 

 

 

 

 受験の経緯

まずこれを受験した経緯なのですが、これは単に、心理学の知識を増やしておきたかったから、というだけです。3年時から突然ボンと文系の心理学部に送り込まれた身ですが、いきなりゼミでやる内容は専門的な内容ばかりで(特に京都大学ともなると、やはり誰でもわかるような基礎は自分でやれというスタンスもあり)、基礎的な内容は自分で網羅しておく必要があるだろうと思い、勉強をはじめました。心理職につく時にもこの検定の級を持っておくことは確実にプラスに働くので、損なことはあまりありませんでした。

 

こうした意向で、勉強を進めた上で感じたのは、

 

目標の設定により勉強の面白さは左右される

 

ということです。どういうことかというと、まず、心理学検定に仮に受かったとして、「私は心理学検定1級を持っています」と言えることになった時、それがどういう意味を持つかを考えます。

 

 

「規準」と「基準」

 

ひとつめは、

「私はこれだけのことを知っています」

という証明。

ふたつめは、

「私は周りよりも頭一つ抜けています」

という証明。

 

前者は即ち、検定の級をとるにあたり、これだけのことを勉強しました、だから問題として出されたものにも正答を導くことが出来たのです、ということを表しています。これは絶対評価であり、自分の「規準」を表す指標として用いることができます。

後者は、受けた人間の中で自分の実力はこれくらいに位置していて、そこらの人間よりは多くを知っているのですよ、ということを表しています。これは相対評価であり、自分の「基準」を表す指標として用いることができます。

 

そしてここで言いたいのは、後者を目標にすると勉強が楽しくないということです(当然人それぞれで、価値観に優劣はありませんし、僕が勝手にこう感じているだけです)。自分が知りたいと純粋に興味を持ち、学ぶことは前者に分類されるでしょう。自分の好きなことをするなら最もエネルギーを注ぐことができます。しかし入試のための勉強など、限られたイスを奪い合う世界になると、周りに勝つために興味のないことまで知らねばなりません。これは決して、苦手なものからは目をそらせとか、見たいものだけ見て生きろと言いたいわけではありません。むしろ逆で、真実を知るには見たくないものを見て知りたくないことを知ることにこそ本当の成長のタネが存在します。そうではなくここで問題としたいのは、主に学校などの場において、子供たちにとっての勉強が

カーストを登る手段

となりそれが苦痛と変わってしまう場合です。

 

 

日本という国では、小さい頃からすべて順位をつけられます。

ラソン大会の順位

だって、

冬休みの宿題の書き初めの金賞

だって、

あの頃苦しんだ内申書

だって、全てが、限られた少ないイスを取り合うための競走となっています。偏差値なんていう、どんな仕組みかも分からない指標に一喜一憂しているのも日本くらいです。勉強は目的ではなく、他人に勝つための手段となっていきます。しかし勉強の本質とは、こんな所にはないと思うのです。

 

勉強とは〜なんて語るのはクサいですが、しかし勉強のせいで周りの人間が敵に見えるような、そんなシステムに見えてしまっているんだとしたら、それは

絶対にもったいない!

とても失礼な表現になることを承知で書くと、例えば学歴を求めるためだけの受験、例えば位を上げていくだけの出世レース、こういったものらに囚われて、大学や職業を縦の関係に見立ててそこに登りつめることを目的としている人間のせいで、市場価値は大きく下がっています。こういう人間で溢れてしまうと、世間は横に広がらない。

 

 

でも、しょうがないんです。

 

 

しょうがないという言葉以外に対処の仕様がない程に、しょうがないんです。縦の見立てが消えることは絶対にない。人を選ぶ以上選ばれない人間が出てくるのは当然なんです。じゃあ選ぶ時に何を目処に選ぶかっていう話になった時

「自分は東大を出ています」

「自分は検定1級を持っています」

っていうネームバリューは、輝いて見えます。これはこの人のラベルでしかなくて、大事なのはどこの大学に入るかではなくて大学で何をしたのか、そんなことは誰もがわかっているのに、でもある種名刺のような役割を果たすその肩書きしか、社会は見てくれません。この時やっぱり人々の視点は、人々を縦に見ている。肩書きしか社会は見てくれないのであれば、当然のように、東大卒だの社長だの、どんどん肩書きを求めに行ってしまい、その肩書きを手に入れることが「勝ち」になってしまう。だから、「東大卒なのに意外と頭回らないんだね」みたいな、ルサンチマンが溢れ出てくるのだって、このせいでしょう。

 

そして、こうした肩書きは個人の行動を制限するものであることも覚えておかなくてはなりません。

 

例えばパーソンズ「病人役割」という言葉は、ここから生まれてきています。個人に「病人」というレッテルを貼ることが、その個人が「病人」として振る舞ってしまうような原因となっているのです。教師が「才能がない」と思っている生徒の成績は伸びません。親に「お前なんか」って言われ続けた子供が自信を持つこともありません。発達障害というくくりだって、めんどくさい子供たちを避けるためのただのラベリングです。国が本気で子供に寄り添いたいわけでは多分ない。子供に対し「症例」ではなく「事例」という言葉を使用している団体だけがこうしたことを分かっているのだと感じます。

 

 

 

 

まとめると

 

レッテルを手に入れるだけの勉強はやめましょうーー!!!

 

ということです。

もっともっと、各個人の生き方は横に広がるのだから、上を目指さずに色んなところを歩き回ることを選びましょうと伝えたいです。僕の中ではこれが勉強です。

 

転学部をした際には発達心理学精神分析を...みたいに書きましたが、今では少し具体的になり、「社会学及び精神鑑別論を絡めながら、いじめ不登校自殺などに及ぶ児童の心へのラベリングの研究」がしたいなというのを、現在の目標としています。

 

 

言葉の自殺

 

ここまで偉そうに書いてきてしまったため、注釈として、自分が正しいとは全く思っていない、ということを最後につけ加えさせてください。自分のことは1番自分が分かっているようで、しかし同時に1番分かっていないものでもあります。

 

あなたは本当に変人か? 

なのに、ラベリングを、自分から自ずと行う輩がいます。例えば、クィア理論を見てみます。もともと、クィアとは「変態」「奇妙な」などの意味を持った侮辱語、差別語でした。しかし1990年頃から、LGBTなど、非異性愛者に分類されるセクシュアリティの人々は自らが「クィア」であると名乗り、クィアという言葉は彼らの間での連帯感を示す言葉へと変容し、肯定的な意味へとなりました。少数セクシュアリティの人々にとってはポジティブな意味での運動でしょうが、少し疑問に残るところもあります。

 

この話と連帯して、今京都大学で開かれている「京大変人講座」なるものを思い出しました。おもしろい、変人、そうしたものを自分から名乗り出る、見ていて少し寒い思いがするのはぼくだけでしょうか?「京大は、おもろい」と、そう言われなくなり始めた昨今、学生はこれを求めまず肩書きから入ろうとしている印象を受けました。

もともと空中に浮遊していて意味を持たぬ言葉が、発話されることなどにより初めて意味を持つ、この瞬間を

キルティングポイント」

と呼びます。例えば、今までなんとも思っていなかったけれど、「あの女、オタサーの姫やな」みたいな発言により、周りの認知が少し代わり、その女性をあまりいい視線で見なくなるような事例。「オタサー」「姫」にマイナスの意味など無いのに、「オタサーの姫」と表現することで侮辱的な意味は少なからず含まれ、その人に付きまといます。

本来、誰かが行動し、それに関して誰かがものを言い、そして付随するはずのこのキルティングポイントです。しかし「京大変人講座」や「クィア理論」は、このキルティングポイントを行動もせずに呼び寄せ、そのことにより自分の行動の印象を操作しようとしているように見えます。

 

もっともっと賢い言葉の使い方は出来るはずです。自分に対しても他者に対しても、所謂「あだ名」をつけてしまうとその瞬間にその人たちの役割が決まってしまいます。その瞬間にその人たちの役割が決まってしまうと、もうそれ以上の規範を出ません。クィア理論に関しては勉強不足で詳しく知りませんので言及できませんが、変人講座に関しては愚かだというのが感想です。

こうした言葉の役割などを言語表象論として勉強していますが、こんな自分に例えば「言語マスター」なんてあだ名がつけられた日には、それは僕の社会的な死を意味します。「マスター」なんていう本来褒め言葉、しかしそこにはプラスの意味はなく、なんとなしに侮辱的な、こうした言葉は個人を傷つけ、檻に閉じこめます。これは、死です。

 

 

 

だとしたら、現代の人々は何人もの人がものすごいペースで死んでいます。しかし、死んだ人間を言葉で生き返らせることもまた同時に可能である、ということが普通の死とは異なるところです。言葉、肩書きで殺すことが出来るのであれば、他の言葉で生かすことだって出来ると思います。

 

自分のしたい勉強はまだまだ、奥深いんだと思います。こんなブログをまた書きたいと思えるときにはさらに成長していることを期待したいです。

 

 

 

おわり。